SATORI BLOG

自らの煩悩とひたすら向き合うSATORI世代でYUTORI世代な社会人のフィクションブログ

ブログ開始

フィリピンの首都マニラ。その中心地としてビジネス街や旅人も集まる地であるマカティという地のナイトエリアに面する中流ホテルの一室に今、私は居ます。

ホテルの客の殆どは白人客。エレベーターでは60歳程度のお爺さんとも受け取れる白人が20代程の若いフィリピーナを連れており、外に出ると深夜の新橋に出てくるフィリピンパブのキャッチの10倍、いや20倍程のフィリピーナとどこ製かもわからない明らかに怪しいバイアグラを売りつけてくる物売りに囲まる異様な地です。

このホテルの滞在は2日目、初日の散歩で既に一気に疲れ果てた私は今日は一回もホテルから外に出ず、部屋でぼーっとしながらこれまでの事を振り返っておりました。

1991年生まれ。平成3年生まれ。私の誕生日の前後にはゴルバチョフが日本へ初来日しており、その同月末にはソ連が崩壊するという時代の変動を感じるようなタイミングに私は生まれました。
俗にいうゆとり世代の真っ只中の教育関係で育ち、大学時代には「草食系男子」「悟り世代」と揶揄された世代において私は他に削ぐわず草食系で且つ物欲のない人間となりました。最近出てきた「ミニマリスト」も同じ類いと私は考えております。

現在はIT企業に勤めており、リモートワークが可能な企業に務めているため趣味も昂じて海外に出ることが多く、今年は月一程度の頻度で海外に出れております。

海外諸国を移動すると様々な文化の違いや出会いがあり、そのたびに発見があります。そしてその発見が自分と向き合うきっかけになり自分という一つの人格に影響をあたえるように感じています。その中でも私は特に人間の欲、あるいは「煩悩」、ガンジーが言う「七つの社会的罪」の部分での発見が多く、自らの人格に最も影響を与えている部分だと度々感じます。

悟り世代という言葉自体どこかの広告マンが勝手に作った俗称なのでゆとり世代程明確なものではありませんが、私はどこかこの悟り世代としての独特の感性や価値観が他の世代と比べてあるのではないかと思うことが多々感じます。

"欲"とはあるべきなのか、無いべきなのか。
以前、マズローという心理学者が欲求5段階説という説を唱えていたということを大学で勉強しました。そこにはピラミッド式の図の中で一番下の生理的欲求から一番上の自己実現欲求と並べられており上に行くほど精神的満足度が高くなると教科書には書いてあり、そういった欲求を解消したいという思いをエネルギーに変えて頑張るという構図が人的資源管理の教科書の定説となっており、そのような社員の欲求をコントロールする、即ちモチベーション管理といったニュアンスを題材にしたビジネス書が多く出回っている用に感じます。

資本主義経済、持つものと持たざるものの世界においては欲求とは必要不可欠なものなのかもしれません。学歴とは、就職とは、結婚とは、恋愛とは、全てにおける部分がそこに紐づくものだと思います。

しかし、何の因果かさとり世代の人間として育って来た私には違和感を感じてなりません。さとり世代は、元々物欲が無いわけでありません、恋愛欲や性欲が無いわけではありません。単に、コントロールが出来るだけだと私は考えております。

このブログではこのような世の中を"悟り世代"として生き、世界を股にかけながら現代社会の中から煩悩と向き合うといったことをを客観的に、思い立った時にアウトプットしていくフィクションブログとして書いていこうと思います。

何卒、よろしくお願い致します。